鵜匠の家旅館すぎ山
〒502-0071 岐阜県岐阜市長良73−1
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅中央北口出口→岐阜バスJR岐阜駅前からG乗り場長良橋経由行き約20分鵜飼屋下車→徒歩約5分
値段:12600~50400円

岐阜都ホテル
〒502-0817 岐阜県岐阜市長良福光2695−2
↑施設の外観
交通手段:私鉄名鉄名古屋本線名鉄岐阜駅〜タクシー(約15分)
値段:6300~31500円

コンフォートホテル岐阜
〒500-8844 岐阜県岐阜市吉野町6−6
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅中央北出口→徒歩約3分
値段:5775~6090円

岐阜ワシントンホテルプラザ
〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町7−7−4
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅長良出口→徒歩約7分またはタクシー約3分
値段:6500~11000円

ホテル330グランデ岐阜
〒500-8175 岐阜県岐阜市長住町5−8
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅北出口→徒歩約3分
値段:6930~15120円

十八楼
〒500-8009 岐阜県岐阜市湊町10番地
↑施設の外観
交通手段:JR東海道線岐阜駅中央北口出口→バス高富線JR岐阜から高富行き約15分長良橋バス停下車→徒歩約1分
値段:11800~35900円

岐阜グランドホテル
〒502-8567 岐阜県岐阜市長良648
↑施設の外観
交通手段:私鉄名古屋鉄道本線岐阜駅→バス加野団地三輪釈迦行き約20分長良川温泉下車→徒歩約1分
値段:5530~41580円

ホテルサンルート岐阜
〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町9−23
↑施設の外観
交通手段:JR名古屋駅〜JR東海道線名古屋駅乗車(岐阜・大垣)行き岐阜駅下車長良口出口〜徒歩(約2分)
値段:7350~8505円

Hotelスポーツパルコ
〒500-8117 岐阜県岐阜市南殿町2−10
↑施設の外観
交通手段:JR東海道岐阜駅〜徒歩(約20分)またはタクシー(約5分)
値段:6000~10000円

ホテルパーク
〒500-8009 岐阜県岐阜市湊町397−2
↑施設の外観
交通手段:JR東海道線岐阜駅北口出口→バス長良さぎ山行き約20分長良橋下車→徒歩約3分
値段:11800~38850円

鵜匠の家旅館すぎ山
〒502-0071 岐阜県岐阜市長良73−1
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅中央北口出口→岐阜バスJR岐阜駅前からG乗り場長良橋経由行き約20分鵜飼屋下車→徒歩約5分
値段:12600~50400円

岐阜都ホテル
〒502-0817 岐阜県岐阜市長良福光2695−2
↑施設の外観
交通手段:私鉄名鉄名古屋本線名鉄岐阜駅〜タクシー(約15分)
値段:6300~31500円

コンフォートホテル岐阜
〒500-8844 岐阜県岐阜市吉野町6−6
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅中央北出口→徒歩約3分
値段:5775~6090円

岐阜ワシントンホテルプラザ
〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町7−7−4
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅長良出口→徒歩約7分またはタクシー約3分
値段:6500~11000円

ホテル330グランデ岐阜
〒500-8175 岐阜県岐阜市長住町5−8
↑施設の外観
交通手段:JR東海道本線岐阜駅北出口→徒歩約3分
値段:6930~15120円

十八楼
〒500-8009 岐阜県岐阜市湊町10番地
↑施設の外観
交通手段:JR東海道線岐阜駅中央北口出口→バス高富線JR岐阜から高富行き約15分長良橋バス停下車→徒歩約1分
値段:11800~35900円

岐阜グランドホテル
〒502-8567 岐阜県岐阜市長良648
↑施設の外観
交通手段:私鉄名古屋鉄道本線岐阜駅→バス加野団地三輪釈迦行き約20分長良川温泉下車→徒歩約1分
値段:5530~41580円

ホテルサンルート岐阜
〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町9−23
↑施設の外観
交通手段:JR名古屋駅〜JR東海道線名古屋駅乗車(岐阜・大垣)行き岐阜駅下車長良口出口〜徒歩(約2分)
値段:7350~8505円

Hotelスポーツパルコ
〒500-8117 岐阜県岐阜市南殿町2−10
↑施設の外観
交通手段:JR東海道岐阜駅〜徒歩(約20分)またはタクシー(約5分)
値段:6000~10000円

ホテルパーク
〒500-8009 岐阜県岐阜市湊町397−2
↑施設の外観
交通手段:JR東海道線岐阜駅北口出口→バス長良さぎ山行き約20分長良橋下車→徒歩約3分
値段:11800~38850円

笠松旅行記
2004年猛暑の京都〜嵐山渡月橋ー比叡山延暦寺ーそして天橋立丹後半島へ貧乏1泊4日の旅!(by 香子さん)
歴代希有の猛威をふるった台風と異常気象の炎天下、
真夏の盆地古都京都で汗と心を流してきました。
新宿南口発の深夜高速バスで、首筋ブルブル寝苦しさ沁みる翌朝
京都タワーの前に到着しました。
東日本横浜在住の私が、西日本京都へ、
自然と歴史と山川街そして海まで見に来ました。
まずは烏丸口構内で関西うどん腹ごしらえ。
宝の地図とありがたい市バスで比叡山のぼりました。
すっかり汗だくのタオルと小銭を活用して延暦寺めぐり。
かなり広い一つの山、東の天下天上、緑の林道が荘厳です。
背後はお隣滋賀県の琵琶湖が目に映ります。
昼飯おあずけで金閣寺へ立ち寄り温故知新気分、
初めての茶室で和菓子と抹茶が暑さを慰めてくれます。
ぐるっと通り道で竜安寺石庭を再来、有名な銭形の石碑にぼんやり休憩を。
夕暮れの嵐山渡月橋にたどり着きました。
お気に入りの四万十川とはまた異なった静止画の佇まいに、
惚れました。
その夜は祇園の街で食事しながら火照った頭も彷彿爆睡です。
翌日どうしても行きたかったメインの天橋立へ、
意を決して旅立ちです。
在来線で丹後半島若狭日本海へグっと北上です。
楽しくて大変な盛りだくさんの試みです。財布も精一杯でした。
正午すぎて生まれて初めて目にする回廊橋。
たまらん感動です。
更に1km程続く砂浜の森林道まだまだこれからです。
脇に広がる日本の若狭の海は、いつもの太平洋と違って透き通って、
身も心も誘われて水浴びに気を緩めました。
とてもプライベートな海辺に後1日浮いていたかった。
こんなに気持ちのいい水辺があるなんて嬉しかった。
伊勢神宮の亀さんに出迎えられてから、
登って上がって西国の霊山寺も超えて身に余る登山の末、登頂。
ずっと渡ってきた林道が、海に浮かんだ道筋のように、
つながっていた風景が絶景なんです。
てっぺんから天橋立をバババーンと、じっくりまったり、
前から後ろから見ました。
春夏秋冬、山川海街、喜怒哀楽の人間模様と、
歴史を長く知るこの京都は、思わずこの先住みたいな私!
と思わせてくれるベスポジのかなり上位です。
龍が天へ昇っていく!?(by Mikaミカさん)
京都の天橋立に1泊で行ってきました。
以前、GWに行ってえらいめにあいました・・・
めちゃくちゃ渋滞して行程がおしまくり、大阪に帰ってくるのも遅くて大変でした。お客さんもかわいそうだったけど、私も終電に間に合うようにダッシュしたものです。
今回も人は多かったけど、順調でした。
雨が少し降っていたけど、到着前にやんでケーブルカーで笠松公園へ。
そこからの眺めはとってもキレイでした。
股のぞきが有名ですが、私はやったことなくて・・・
逆さまに見たら本当に龍が天に昇っていくように見えるんでしょうか?
約8000本の松(実際は台風の影響で少なくなってますbyガイドさん情報)を龍にたとえた、日本三景の一つでした。
美濃新四国八十八ヶ所巡拝(by ムラさん)
本当は本場の新四国へ行きたかったのですが休みが中々取れなかったので近場の美濃新四国の八十八ヶ所を巡拝を約1ヶ月かけてゆっくりまわってきましたが、やはり手を合わせるという事は気持ちがやすらぎます。
すべて回った後はなんともいえない達成感でいっぱいでした。
この何が起こるか判らない世の中会員の皆様も1度手を合わせて新鮮な気持ちになるのもよいのではないでしょうか?
石灰岩台地に構築された城砦都市マルタ島(by 早島 潮さん)
ヴァレッタ、バガール・キム、ラバト、イムディーナ、モスタ、チェルケウァ(コゾ島)、シュレディ村、ヴイクトリア、スリーシティ、カルカーラ、マルサシュロック、ビルジェフ
平成14年12月13日(火)
8時26分横浜発の成田エクスプレスで一時間程早めに出かけた。橋田さんと一緒のときは橋田さんの運転する車に同乗させて貰うのだが、今回はカードで料金を支払った成田エクスプレスにした。これにはわけがある。サウジアラビアへ旅行したとき土産物店で展示されている置物の値札を確かめようと手にとったところ鳥の首が台座に固定されていなかったため転げ落ちて壊してしまった。弁償させられるはめになったが、マスターカードの付帯保険で担保される筈であったから、証明書を店から貰っておいた。ところが帰国して保険会社に請求すると保険の取り扱いが変更になって旅行の前に、旅行に使用した公共交通機関の料金をカードで支払ってあることが保険適用の条件になるというのである。そんな適用条件があるとは知らなかったのでこの時の旅行には交通費をカードで支払うということをしなかった。ために弁償は自己負担となってしまったという苦い経験があったのである。
電車の中ではニューヨークへ遊びにでかける3人連れの賑やかなOLと乗り合わせた。
ミラノ経由でロンドンに到着したが、ゲートが搭乗券に記載されたものとしょっちゅう変り油断ができなかった。
初日の宿泊は辺鄙な場所に位置するホテルで、ここへ到着する間際の両側の道路に駐車された乗用車が邪魔になってバスが通り抜けるのが精一杯であった。前回橋田さんとイタリアのルネッサンス芸術を見て廻った時もローマでは郊外の辺鄙な場所のホテルであったから、ひょっとして同じホテルかなと思っていたが到着してみると予想は外れた。夜11時過ぎの到着だったのですぐ就寝したが、室温が高く汗をかいてしまった。
平成14年12月14日(土)
マルタへ飛ぶため朝5時45分のモーニングコールで7時15分にはホテルを出発してマルタ国際空港へ急いだ。
10時05分発のアリタリア航空でマルタへ飛んだ。シチリア島上空からは島がよく見えた。エトナ山の噴煙は反対側の窓からは見えたらしいが生憎私のサイドからは見ることができなかった。
マルタ空港は小さな空港だが空港の建物にこころなしかイスラムの影響が感じられる。建物を撮影していて手袋の片手を落としてしまった。飛行機を降りて建物まで歩いたのも小さな空港ならではのことである。
空港にはマリアさんという英語ガイドのマルタの女性が出迎えていた。彼女の旦那はオーストリア人だという。彼女の話はネイティブの英語でないので日本人には判りやすい。
今日は土曜日なのでヴァレッタのマルタ騎士団長の館は閉館なのだが、日本人観光客が来るというので管理人の特別な計らいで開館するという。マルタ島の観光客は日本人が最近では一番多いのだそうだ。昼食を後回しにして取り敢えずそちらへ急行することになった。
バスでヴァレッタ市街のバスターミナルに到着するとそこには一様に車体を黄色に塗った年式の古いバスが沢山駐車していた。ざっと数を目で追ってみると35台ほども駐車していた。ここはマルタ島のバスターミナルになっていて全ての路線はここが起点になっているという。ターミナルは円形になっていてその中心点には円形のトリトンの泉があり、三人の人間の像に支えられた円盤に水が噴出している。人々はここで下車してシティゲートと呼ばれている城門をくぐってヴァレッタの市街地へ入るのである。
シティゲートをくぐって前方を眺めるとアッと思わず感嘆の声が洩れてしまった。リパブリック通りと呼ばれる目抜き通りには垂れ下がったクリスマス用の飾りの下を夥しい群衆が散策しているのである。国際色豊かな観光客が過半のようである。こんな小さな島にかくも多くの観光客がといった感慨を覚えた。蜂蜜色をした建物が通りの両側に建っていて装身具やら貴金属やら工芸品などの店が並んでいて、土曜日のせいもあろうが、非常に活気に満ちた繁華街の賑わいを作り出している。
ここで持参したビデオカメラでこの賑わいの雰囲気を撮影しようとレンズを向けたのだが、ファインダーが真っ暗で何も見えない。さては飛行機の中で上の棚に格納しているときスイッチが入ったままになっていてバッテリーを消耗してしまったかとの疑念が浮かぶが納得できない。この地で初めてビデオを構えたときにはスイッチはオフになっていたのを確認している。そのうちナイトショットスイッチがオンになっていることに気がついた。これではファインダーが暗くなる道理である。
騎士団長の館は二階建ての石灰岩で作られた豪華な建物である。正面のバロック様式の玄関から中へ入ると頭の禿げ上がった案内人が待っていた。昔日本に桜内義雄という代議士がいたが彼に風貌がよく似ていた。廊下の天井には絵が描かれており壁面にも由緒ありげな絵画の入った豪華な額が飾られている。何よりも注目をひくのはそこに沢山置かれている騎士達の鉄製の鎧である。今にも動きだしそうな錯覚にとらわれそうになった。
禿げ頭の案内人が最初案内してくれたのは兵器庫の建物の二階の廊下に面したうす暗いタベストリーの部屋である。ここは騎士団の重要な会議が開催されたところであるが、周囲の壁には由緒と来歴のある豪華なタベストリーが飾られていて当時の議会の様子を傍聴するための新聞記者席も当時のままの姿で残っていた。部屋が薄暗いのはタベストリーを保護するためという。件の禿げ頭の案内人は日本語で書かれたマルタ島の解説書を沢山持っており一冊千円で頒布していた。彼が休日返上で騎士団の館を開館した理由はどうやらこのあたりにあるようであった。マルタ人が親日的であると早急に判断はできないと思った。
次々といくつかの部屋を案内して貰ったが、いずれの部屋も豪華なタベストリーや額縁に入った絵画や壁面に直接描かれた絵画で豪華に装飾されており、当時の騎士団が裕福であったことを窺わせる。因みに彼らは異教徒であるトルコ船団を襲撃する海賊行為も行って富を蓄えたと言われる。更に騎士団に参加するヨーロッパの騎士達はヨーロッパの貴族の次男坊や三男坊で裕福な階層出身者でもあったから彼が死亡すると遺産が騎士団に寄贈されるという習慣もあったようである。
大きな部屋には英国皇室関係者の肖像画とともに歴代総督や独立後の大統領の肖像も掲げられていた。注目をひいたのは女性大統領の肖像が掲げられていたことであり彼女は最近90数歳の天寿を全うしたという。
現在はコンサート等も行われるという豪華な飾りつけの大広間には黄色いシルク製のカーテンが飾られていて細かな刺繍が施されていた。フランスのリヨン製ということであった。
さて騎士団のことであるが、騎士団の源流は厳しい戒律で知られるベネデイクト派に属する修道士達である。ここマルタ島の騎士団の正式名称はヨハネ騎士団と呼ばれ第一次十字軍時代 (1096〜1291)に修道僧ジェラルドによって創設された宗教騎士団であり、1113年にローマ教会の教皇パスカリス二世によって宗教団体として公認されたものの末流である。ヨハネ騎士団は創立当初は聖なる地イスラエルで病人を看護し、疲れた巡礼者を受け入れた慈善団体であり、聖ヨハネ病院で活動していたことでも知られる。その後巡礼者がエルサレムまでの長い道程を安全に旅できるようにこの団体は騎士団としても活動した。12世紀の半ば頃にはこの騎士団の団長をグランド・マスターと呼ぶようになった。
服装は黒衣白十字の外套を着用し十字軍では異教徒との戦闘にも参加して華々しい戦果を挙げた。1291年にアッコンの砦がイスラム教徒(セルジュク・トルコ)の攻撃で陥落しエルサレム王国が滅亡すると彼らはキプロス島へ一時避難し、その後ロードス島に滞在して組織も強化され海戦ではヨーロッパ中で一番強い軍隊に成長していた。しかしながら1522年にスレイマン1世に率いられたオスマントルコ軍の攻撃に敗れて7年間程放浪した後神聖ローマ帝国のカール5世からマルタ島を与えられた。ヨハネ騎士団がこのマルタ島へやってきたのは1530年のことであった。このときから現在マルタ島に残されている建造物の過半のものの建設が始まったのである。
ヨハネ騎士団がこの島へやってきた頃この島には封建制度がなかったので島古来の住民の有力者達は彼らが来住し島を支配することを歓迎しなかった。騎士団が定住することを受け入れた儀式では騎士団長の長老がマルタ島民の特権や権利をこれまで通り尊重することを宣誓した。
この島にきた騎士団は最初内陸部にあるメディーナという街にある古い城の内側に定住し町中を整備した。そして半島の先端にある天然の良港である聖エルモ(ヴァレッタ市街最先端の砦)とビルグ(その後ヴィットリオーザと改名)に要塞を築きトルコ軍の来襲に備えた。しかし1547年と1551年の攻撃では莫大な損害を受けた。島は略奪の被害を受け島民の多数が奴隷にされてしまった。
この二回のトルコ軍の襲撃に懲りた騎士団は島の要塞化と防衛に力を注いだのである。そして1565年5月18日史上に名高い大包囲戦を迎えるのである。この戦いはオスマン・トルコ軍とその同盟国がマルタ、シチリア、イタリアを通ってヨーロッパに向かうため4万8千人の兵士を送り込んだのである。これに対抗するため防衛軍は8千人のキリスト教の兵士、540 人のマルタ騎士団、4千人のマルタ人、その他スペイン、イタリアからの傭兵の連合軍が組織された。31日間の戦闘の結果トルコ軍に病人が増加し、かつ兵器の補給が間に合わずトルコ軍は撤退した。この時マルタ騎士団の指揮をとったのが団長のラ・ヴァレットであった。この戦いのあとで現在のヴァレッタの街に計画的な要塞都市ヴァレッタが建設されたのである。名前は騎士団長の名前に因んでいる。
このあとアッパー・バラッカー・ガーデンへ行った。この公園はヴァレッタ市街地の南端にあり、グランド・ハーバーや対岸のセングリアやヴイットリオーザの市街地を眺望することができる。この場所に立って景色を眺めているとこのマルタ島という島がいりくんだ天然の良港であり、石灰岩の上に石積みの建物を建てた全島これ要塞といった構造になっているのをよく理解することができる。
夕闇迫る頃、聖ヨハネ大聖堂を訪問した。この大聖堂はヨーロッパで最も美しい教会であると言われるが、その言に違うことなく内部の装飾はバロック式であり、柱や壁に施された金箔と寄木細工の豪華絢爛たる彫刻群は実に見事である。ただただ目を見張るしかない。そして建物の両脇に設けられた8個の礼拝堂は8か所の出身国の言語別に分けられた騎士団長の墓所になっていて柩に施された大理石の彫刻が実に素晴らしい。マルタ十字の四つの先端が二つに割れて合計八つの鋭角ができているがこれはこの8か国の言語をも象徴しているのである。それはオルベール、アラゴン、プロバンス、ドイツ、フランス、イギリス、ボルトガル、イタリアの国々である。
更に注目に値するのは隣室のオラトリオに保管されているカラバッジョ作の「ヨハネの斬首」という大きな絵画である。彼の作品中唯一のサイン入りの傑作である。
この建物は1573年に騎士団長ジャン・デ・ラ・カッシュールの発意により建設が許可されマルタ出身の建築家ジローラモ・カッシェールによって1578年に完成された
。
平成14年12月15日(日)
マルタ島南部のハガール・キムへ遺跡の見学に行った。何しろ小さな島なので40分も走行すると南端の海岸線へ到着する。この神殿の遺跡へたどり着くまで曲がりくねった細い田舎道の周辺に田園風景が展開されたが、田圃の周辺には区画するかのように必ず小さな石を積み上げた石組みの境界線が設けられていた。そしてまだ開墾されていない荒蕪地には石ころや岩がいたるところに散在していた。最初石組みが珍しいなと単純に眺めていたが、荒蕪地の状態を見るに及んでこの石組みの囲いの意味を了解し、苦難続きであったろうと思われる人間の営為を思いやった。つまりこの石組みは田圃を開墾した農夫達の何代にも及ぶ自然との戦いの痕跡であったのである。耕地を作りだすためには荒蕪地に無数に転がっている岩石を取り除かなければならない最初は取り除いた岩石を一カ所に纏めたに違いないが、その量があまりにも膨大であったため取り除いた岩石で田圃の境界線を築きあげることを思いつきこの形態が出来上がったのであろう。それまでにどれだけの涙と汗が流されたことであろうか。ネパール等の山間の土地で見かける段々畑と同じような労力が注ぎ込まれているのである。
ハガール・キムの遺跡は大小の石灰岩を組み合わせて積み重ねた遺構が残されているだけで説明を受けなければこれが神殿跡の遺跡であるとは思いもよらない佇まいである。小さな円形の部屋を取り囲むように石組みの壁が設けられているだけであるがよく見ると羊や山羊を生贄として捧げた石の台なども残っているし、神のお告げを聞くためのオラケルと称する穴が岩塊に穿たれていたりする。ガイドの説明で当時の神殿をイメージしようと試みるがあまりにも崩落が激しく思うように想像することができない。復元図でも掲示されていれば理解しやすいのだろうが、そのようなものはどこにも見当たらない。
男根と女陰を象徴する石や柱が神殿の入り口には残っていた。ここにはなかったが博物館に収蔵されている女性像は胸部と腰部が極端に大きく誇張された造形になっており、太った女性は豊穣のシンボルと考えられていたという。
この神殿は紀元前2700年頃に作られたものであり青銅器時代のものであろうと推定されているがまだ研究段階で詳らかなことは判っていないようである。ある考古学者は先史時代に栄え、海中に水没したと言われる伝説上のアトランティス大陸の一部でないかと推理しておりロマンに満ちた遺跡である。
さてマルタ騎士団が来島する以前の歴史について若干調べてみると以下のようである。
紀元前1000年頃マルタはフェニキァの植民地になるが、前736年にはギリシャに占領されメリタと呼ばれた。その後カルタゴ、さらに前213年にはローマの植民地となった。395年にローマ帝国が分裂するとマルタはビザンティン帝国の支配下に入るが370年にはアラブ人に占領される。ノルマン人がマルタのアラブ勢力を征服したのは一O九O年のことであり、その後マルタはシチリア王国の封土となった。1530年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世からヨハネ騎士団にマルタ島が与えられて今日残っている建造物の建設が始まったのである。
ハザール・キム遺跡の海岸線はるかかなたには無人島のピルクル島の島影が見えていた。
次いで海岸線を走ってブルーグロット(青の洞門)まで行ったが風が強くてボートで見学する予定はキャンセルされた。危険なため船がでないのである。海岸の展望所からブルーグロットを眺めたが石灰岩が海水に浸食されてトンネルのように穴が穿き海の色が鮮明な青色であることから青の洞門と呼ばれ舟遊びの名所になっているのである。日本でいえば伊豆堂ヶ島の洞と似たようなものであろうか。
たまたまこの洞門の上から海面までロープを垂らして下降訓練をしている登山家を目撃することができた。
次に内陸部のラバトとイムディーナへ向かった。この地へ至る道中のズリエック村で石灰石を切り出している採石場を見学した。巨大な絶壁が残されており長い年月かけて切り出された石材が如何に大量であったかが窺える。現在もこの場所では石材の切り出し作業が引き続き行われていた。
ラバトの市街とイムディーナは隣接してあった。ラバトとは城の外という意味であり、イムディーナは城の中という意味である。語源はアラビアである。イスラム世界で城砦都市のことをメデイナというし、モロッコの首都はラバトと呼ばれていることと思い併せるとこの地がアラブ人達によって作られたものであることを了解できる。 イムディーナの近辺には太古から人が住みついておりアラビア人達がイムディーナを作りこの島へ来住したマルタ騎士団の人々も当初はこの地へ定着して街を整備したのである。イムディーナは現在昼間でも人影の少ない沈黙の街とも言われていて人口は400人ほどしか住んでいない。この街も堅固な要塞になっており1565年の大包囲戦の時には終盤戦で、オスマン・トルコ軍はこの街を攻撃したが僅かな守備隊に撃退されたという。
イムディーナの門をくぐったところには騎士団長の館があった。城内にはカシードラルと呼ばれる司教座聖堂がありランドマークとなっている。この建物は13世紀に建設されたが一六九三年の大地震で倒壊しその後ゴシック様式で再建された。倒壊前の資材も一部に使われており、内部から見たキューポラは見事である。また被災を免れた壁画「聖パウロの難船」も秀逸である。このカシードラルはヴァレッタの大聖堂よりも古いものである。
ラバトでは聖パウロのカタコンベを見学した。カタコンベとはパレスティナの地のユダヤ教徒の発案による地下墓所で、キリスト教発祥のころより、キリスト教徒に取り入れられ、初期キリスト教の伝達とともに各地に広まったものである。
この地のカタコンベはカルタゴ支配の頃にカルタゴ人の墳墓として掘られ始め紀元前1世紀から4世紀にかけて主にキリスト教徒の墓所として発展し8世紀頃まで使われたが、盗掘にあったりたして目ぼしい埋蔵物は残されておらず僅かに発見されたものが博物館に収納されている。縦横に走る地下通路の両側の壁に大小無数の穴が穿たれているが、現在は遺骨もなにも残っていない。薄暗い墓所を足元に気をつけながら見て歩くのはあまり気持ちのよいものではなかった。
次いでモスタの市街へ移動した。モスタの市街地内では教会が開門するまで自由時間ができて市内を散策することになったが、買い物に興味を示さない小生は静かな町中を歩き廻るだけであった。尿意を催し便所を探したが見つからず大変な思いであった。博物館へ飛び込んでみたりしたが便所はどこにもなかった。なんとか我慢しているうちに時間がきてモスタ教会を見学した。折りから嬰児達が両親に抱かれて沢山集まっており、牧師が子供達に洗礼をする儀式に出くわした。日本の七五三のお宮参りと似通った雰囲気が漂っていた。
このモスタ教会のドームはヨーロッパ世界では第3番目の大きさを誇ると言われるだけあって見事なものであった。因みに第1はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、第2はロンドンのサン・ポール大聖堂である。
教会の中でもガイドの説明は上の空で必死に便所を探したが見つからなかった。欧米の古い街を歩いていて寒い時などに最も困惑するのは尿意を催した時に便所がなかなか見つからないことである。旅行を上手にするこつの一つに便所をうまくみつけ休憩時間に如何にうまく用を足しておくかということがある。機内でも然りである。機内は気圧が低くなっているので体内のガスが膨張して噴出しやすい状態になっているが、食べ物が変わるのでうっかり放出すると実まででてしまう虞がある。そこで便所へ入ってガスを放出することになるが、便所へ立つタイミングが難しい。食事中や食後にはカートが通路を塞いでいて通れない。また通路が空いているときは往々にして便所には行列ができている。海外旅行中の体調管理の要諦は如何に便所をいいタイミングで利用するかにかかっていると言っても過言ではないと思う
モニタ教会を出てサン・アントン・ガーデンに立ち寄った。イギリス統治時代に作られた庭で珍しい植物が集められているようであったが、なかなか集中して見ることができない。意識は専ら尿意の処理にのみ向いている。やっと便所があるのを発見し飛び込んだ。放出する快感と安堵感はなにものにも替え難いものがある。
ガーデンに隣接してある大統領官邸の前を通ったが小さな島の共和国の大統領官邸としては敷地も広くなかなか壮大なものであった。
この日は夕食を摂りに散歩がてら湾の海岸沿いにサンジュアンニの夜の街へ出かけた。ショッピング・モールではファッションショーなのか少女達のグループが軽快なダンスを披露していた。
昼間バスから大体見当はつけておいたのだが、道がよく判らず飲食街にたどりつくまでに苦労してしまった。いざ店を選ぶとなると難しいものである。19時頃だというのに客の入っていない店が多い。バーは若者で賑わっているようだが、夕食を摂る雰囲気ではない。かといってきちんとしたレストランへ入ってみたいと思う程腹もすいていないし、現地通貨も使い残さないように僅かしか両替していないのでこころもとない。さんざん歩き廻ったあげく、軽い食事で済まそうということになり、あまり人の入っていないピザハウスへ飛び込んだ。一組の子供連れの夫婦が食事をしていて愛想がいい。マルタ人は外来者に誰彼かまわずこうなのかと思っていたら、じつはこの店の経営者であることが後で判った。
ビールを飲みツナのサラダとミートのスバゲッティを食べたが一人あたりチップを入れて6マルタリラ(1300)であった。イタリア料理はボリャームが多いことは承知していたので二人で分け合って食べる積もりでサラダもスパゲッティーも一人前ずつ注文した筈なのにサラダがきたのをみると日本なら3人分もありそうな膨大な盛りのサラダの大皿が二つもきてしまった。サラダたるや半切りにしたゆで卵が三個ついていてツナは茶碗一杯分ほども盛られている。野菜ははみださんばかりでおまけにパンまでついていた。スパゲッティだけは1人前だったようだが、ブロークン・イングリッシュの所為で意志がよく通じなかったのか、どうもサラダだけは2人前きてしまったようだ。隣で食べている中年の男のサラダの量もべらぼうに多いので、この国ではサラダだけは別格の扱いがなされているのではないかと思った。なんとかサラダの野菜だけは全部平らげたがこれだけで満腹してしまう量であった。スパゲッティーは1人前を二人で分け合って丁度よい分量であった。軽く済ますつもりの夕食が満腹する結果となってしまった。たまたまクリスマス近くのせいか若いウエイトレスはサンタの帽子をかぶっていて愛嬌がよかった。
平成14年12月16日(月)
8時にホテルを出てコゾ島へ渡るべくチェルケウア港へ向かった。道中、岬や要衝の地には石灰岩でできた物見の塔や狼煙塔が必ず建っており、外敵に備えて怠りなかった当時の島民の緊張した日常生活が偲ばれる。また街道筋には笠松の並木があり、ローマの強い影響があったこともよく判る。平野に広がる田圃は一様に、もう馴染みになってしまった石組みで区画されている。セントポール湾に差しかかると湾の入り口に無人島のセントポール島の姿が黒ずんだ島影を太陽に輝く海面に際立たせていてなかなかの絶景である。 このセントポール島には聖パウロの遭難の史実が残れされている。彼は当時公式の宗教ではなかったキリスト教を広めた罪でシーザーの命により外国の地からローマへ連れ戻されローマの法で裁かれることになったが、難を逃れて冬を過ごすためにより安全な港であるクレタ島へ移動する予定であった。ところが悪天候のために航路を外れ14日間船は大きく揺られながら流され、マルタ島のアウラポイントに着いたが、その翌日には風と反対の方向に進もうとしてサンパウロ湾に漂着し、タルーガッツイーニという岩礁に座礁した。遭難者達はこの地で体調が回復するのを待って首都のメリーダ方面に移動をはじめた。そしてラバトの聖パウロの洞窟に拘留されながらも約三カ月間滞在し土地の有力者や住民達に数多くの奇跡を行いキリストの福音を説き続けたと伝えられている。
風光明媚なセントポール湾を後にしてやがてメッリーハ湾が見下ろせる場所にさしかかった。この近くにはポパイ村というのがあった。ポパイ映画が撮影された場所で今は村起こしのためにポパイに因んだ企画を色々考え出し観光地として売り出しているという。
メッリーハ湾の日当たりの良い丘陵地に緑色の小さなコンテナハウスがごちゃごちゃと建ち並ぶ一角があった。これはマルタ庶民達の保養地でコンテナハウスは別荘であるという。
チェルケウアの港につくと対岸には有人のコミノ島とゴゾ島が目と鼻の先に見えていてフェリーがひっきりなしにゴゾ島とマルタ島を往来している。
僅か20分程の乗船でやがてゴゾ島へ到着した。船中ではインド人の子供連れの若い夫婦と乗り合わせた。三人の子供連れであったが、一番下の女の子は二才だという 人懐つこい可愛い子なのでキャンデーを与えるとはにかみながらも受け取った。すると父親がその子に向かって「セイ・サンキュー」としきりに教えていた。親が子供を躾ける自然な光景として旅の想い出に残るものである。
夕食の時、このことを話題にすると同行の老婦人が「それが世界各国の共通の人情というものでしょうが、最近の日本の若い母親は変わっていますよ。可愛い子供に飴を上げようとすると、母親が血相変えて子供が虫歯になるから余計なことはしないで下さいというんですよ。」と嘆いていた。
ゴゾ島ではジュガンティーヤ神殿を見学した。これも古代の神殿跡で円形の部屋を囲んで石組みの壁面だけが残っていて天井はない。ここも女性の胸部と腰部を強調した8の時型の平面になっていて男根と女陰のシンボルとなる岩や石組みが残されていたが説明を受けなければそれとは判らない配置である。往時は13mの高さにまで壁が積まれ屋根には木材が使われており、周辺の森林が神殿を覆うように繁茂していたというが、森林は船を造るために伐採されてしまい、今では樹木は全然残っていない。この神殿はシチリアから渡ってきた人々が作ったと推定されていてシチリア島にも似かよった様式の遺跡が多数存在するということである。
次にラムラ湾へカリプソの洞窟というのを見学に行った。立地的には対岸の砂浜を見下ろす素晴らしく景色のよい場所にちゃちな洞が残っているが中へは入れない。カリプソという語には懐かしい響きがあるので調べてみると二通りの意味がある。
一つは昭和32年頃歌手の浜村美智子がバナナボートでヒットした西インド諸島の黒人労働者の間に生まれた4分の2拍子の民謡のリズムのこと。と同時に彼女が流行らせた長い髪のスタイル。
二つ目はホメロスのオデユッセイアに、妖精のカリプソに魅せられたオデュッセウスが7年間カリプソと共に住んだという伝説である。その洞窟がこれなのである。
シュレディー村という所で小休止したが、ここには泉が湧いていて周囲には石造りの給水設備が設けられていた。現在は洗濯場に転用されて地域の主婦達の社交場になっているが往時は飲料だけに使われたものであるという。
次にヴイクトリアのシタデルへ行った。このシタデルはコゾ島の首都であるヴイクトリアの街の北側の丘に聳えている城砦で12〜13世紀に作られたものである。一六九三年にこの地方を襲った大地震で打撃をうけた。現在ではこの城砦内の建物は朽ち果ててしまい人は誰も住んでいない。このシタデルの展望台に登るとコゾ島全体の展望ができる。
シタデル内のカシードラルで興味を引いたのは天井にあるキューポラの騙し絵である。天井にあたかもキューポラがあるように見える丸いドームがあるが実はこれは遠近法を応用して描かれた平面的な絵画である。また建物の配置がラテン十字になされているのも面白いと思った。
このあとドウエザという海岸でアズル・ウインドウと呼ばれる岸壁が海水で浸食されてできた洞を見学した。インランド・シーと呼ばれる小さな内海が近くにあるとのことであるがこれは見ることができなかった。
平成14年12月17日(火)
東マルタの周遊ということで9時にホテルを出発して最初にグランド・ハーバーを挟んでヴァレッタの対岸にあたるスリーシティーへ行った。スリーシティとはマルタ騎士団が外敵に備えるために最初に作った城砦都市でサングリア、コスピーク、ヴイクトリオーザの3地区のことを総称する地名である。サングリア公園ではグランドハーバーを展望したが、対岸のヴァレッタの市街が計画的に作られた都市であることがよく理解できる。全市これ城砦という感じがよくわかる。次いでコスピークを通り抜けてヴイクトリオーザでは城門をくぐって宗教裁判所、セント・ロレンツォ教会を見学した。何れも城郭内にある建物である。セントロレンツォ教会はヴィクトリオーザで一番最初に建てられたものである。宗教裁判所は名前からすると宗教上の異端者を裁いたという印象を語感から受けるのだが、単なる裁判所に過ぎない。聖職者が判事をつとめたから宗教裁判所というのかもしれないが、ネーミングとしてはちょっと不自然な感じがあり実態にそぐわないところがある。
街の佇まいはこじんまりとしており、街全体がいざ戦いという時には城砦として籠城できるような作り方になっていたのが印象的である。
このあとカルカーラに立ち寄った。ここには第一次世界大戦の時、同盟国の英国を応援するためにマルタ島へ派遣された日本海軍の軍艦が魚雷にあたって被災し乗組員60人が戦死した霊を弔うために慰霊塔が建っていた。一人密かに般若心経を唱えて霊を慰めた。煙草に火をつけて備える同行者もいた。
マルサシュロックという静かな漁村でシーフードの昼食を摂り、暫く長閑な漁村を散策した。
ビルジェブ村には1989年12月23日にゴルバチョフとブッシュが会談した記念碑が建っていた。この会談後東西の冷戦が終了したのである。
この日は東マルタの周遊を終えてヴァレッタ市内のシティーゲートの前で解散となった。カルバッチョの「聖ヨハネの斬首」が午後4時から大聖堂で見学できるというので何人かとともにここで降りホテルへ帰るバスと別れた。
時間になるまでヴァレッタの目抜き通りを散策して時間を潰したが最初この地へ踏み入れたときのような賑わいはなかった。平日のせいであろうか。
大聖堂で「聖ヨハネの斬首」を鑑賞してからバス乗り場で市バスに乗ってホテルの近くまで戻ってきた。運転手にホテルの近くへ来たら教えて欲しいと頼んでおいたので、40分程もおんぼろバスに揺られたと思った頃運転手が合図してくれたので慌てて飛び降りた。ところが目印のヒルトンホテルは近くにあるのだが、交差する道路の真ん中で方角が全然判らなくて途方に暮れてしまった。運良く学生が通り掛かったので道を尋ねると前日夕食にでたとき最初にたどりついたショッピングモールまで連れて行ってくれた。そこでやっと方向感覚が元に戻った。ホテル前と言ってもとんでもない方向違いの場所で降ろされたことになる。
一旦ホテルへ帰り暫く休んでから再びセントジュリアンの街中へ出かけて前回夕食を食べたビザハウスで夕食を摂った。うまいぐあいにここでマルタの通貨は全部使い切ることができた。
【旅行時期】2002/12/13~2002/12/20
【エリア】
マルタ
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮
ルネッサンスの美術を鑑賞して廻ったイタリアの旅(by 早島 潮さん)
平成13年11月14日(木)
添乗員は大須久美子というがっしりした体格の大柄でベテランの女性である。
飛行機はアラスカ経由で北極の上空を飛んだ。ジャパンエアシステムとオランダ航空の共同運航便であった。
アムステルダム空港で乗り継ぎミラノのホテルへ到着したのは23時半であった。 就寝したのは24時5分であった。風呂へは入らなかった。時差8時間だから一日が32時間の長い一日は終わった。
平成13年11月15日(金)
ホテルの名前はレオナルド・ダ・ビンチホテルである。
昨夜風呂に入らなかったので朝早く起き出してシャワーを使った。睡眠も十分で気分爽快である。
最初にスカラ広場へバスでやってきた。ミラノは二回目の訪問なので目に馴染みのある光景が広がっている。スカラ座とマリノ宮、エマニュエル・アーケード、市庁舎に囲まれてスカラ広場は位置している。
広場の中央にはレオナルド・ダビンチ像が建っている。スカラ座はベローナからきたスカラ家がサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会を先ず建てその跡地に建てられたものである。1778年に開場し数多くのオペラの名作が上演されたことで知られている。
エマニュエル・アーケードは建築家ジュゼッピ・マンコーリによって建てられたドーム型の天井を中央に持つアーケードで文化人のサロンにすることが目的であった。 天井中央部の絵画の装飾が素晴らしい。今ではこのアーケードには商人が入って店舗を開いているがカフェも多く昔のサロンの名残をとどめている。
ミラノの大聖堂は通称ドーモと呼ばれ1386年にシャンガリアッチ領主の命によって建設が開始されおよそ500年かけて完成されたゴチック様式の教会である。総大理石作りで建物自体目を見張る程の豪華さであるが、とりわけ有名なのはキリストが磔り付けにされた時に使われたという釘が天井に吊るされていることである。釘を管理するためのゴンドラまでが特別に作られて吊るされていた。聖なる釘の日として 9月14日には儀式が行われる。
ゴチック様式では世界で第三番目の大きさを誇り4万人が収容できるという。面積は111、700m2である。フランスのナボレオン一世は1805年にここで戴冠式を行った。
次に城を見学した。14世紀にこの地を支配していたヴェスコンチ家がスフォルツァ家に代わりバルバロッサ(赤髭の野蛮人)の侵入を防ぐ目的で作られたのがスフォルツェ城である。
この城内にある博物館にはミケランジェロの未完のピエタという彫刻があり、作りかけの素材を再利用したためマリアの目が三つあったのが印象的であった。またマリアに抱かれたイエスのだらりと力なく下がっている様子はリアルに脱力感をよく表していた。
ミラノの守護聖人はローマ皇帝テオドシュウスを破門にしたサン・アンプロシュウスであり,市内至るところに銅像やモニュメントが残されている。
ミラノ市の人口は137万人でイタリア第二の大都市であり経済の中心地である。
昼食にエマニュエル・アーケード近くのレストランに入り、貝入りのスバゲッティーを注文して食べたが勘定に時間がかかって集合時間に遅れてしまった。しかも初めてイタリアの通貨を使用したので桁を間違えて56,000リラのところを5万リラ札1枚と1万リラ札6枚で計11万リラ支払ってしまうというチョンボを犯してしまった。このことに気がついたのは、ミネラルウオーターを買おうと思い財布を取り出しその中身が意外に少ないのを不審に思った時であった。
午後から280キロバスで走行してベニスに向かった。半日バスの中で窓外の景色をみたり居眠りして過ごした。
平成13年11月16日(土)
ヴェネチア近くのフェリー乗り場から船に乗りおよそ15分程で水の都の中心街へ到着した。
ヴェネチアは118の島を連ねてその上に建設された市街地で運河が縦横にはしり160の運河、400の橋、ゴンドラ等で知られる水の都である。中世にはオリエントとの貿易で栄えジェノバとともに地中海貿易の重要な拠点であった。
最初にアカデミア美術館を訪問した。この美術館は1500年代にヴェネチアの信仰団体の集会場として建てられたものが美術館として転用され保存されたものである。 ベネチァの豪商達が贅を凝らして営んだ集会場だけにその建物内部に使用されている建築素材や金を多用した装飾の豪華さには目を見張るばかりである。
この美術館にはベネチア派の作品が数多く展示されており、その特徴は華麗な色彩と豪華な官能美にあふれていることである。この派の確立者はベリーニ一族である。
ベリーニの後ジョルジョーネ、ティティアーノ、バルマ・ベッキョ、ティントレット、ベロネーズらが輩出して15〜16世紀に黄金期を迎えるのである。 注)ここにはウフィッツイ美術館所蔵のものの写真を転載した。
ルネッサンスの三大画家と言われるティティアーノ、ティントレット、ベロネーズの作品をはじめ、ロレンツォ・ロット、ベルナルド・ロッチ、ピェコロ、カルバッチョ等の名作の実物を間近に鑑賞することができ至福の一時を過ごすことができた。
アカデミア美術館に名残惜しみながらベネチアグラスの工房を訪問した。職人が長い棒の先に付けた高温のガラス素地を吹いて膨らませ、ぐるぐる回転させながら器用な手つきで容器の形に作り上げていく工程はとても面白い光景であった。赤色のベネチアグラスが最も高級品で材料の産出が少ないので海外への輸出はされていないというのは初耳であった。赤色の発色に金が使われているらしい。
監獄へ通じる橋を「溜め息橋」というがガラス工房の入り口から眺めることができた。
この町には自動車や自転車が一台も走っていないし、その姿すら見かけない光景が珍しいと思った。通路も狭く運河を船で往来するか歩くしか交通手段のない町であり自動車出現以前の町の雰囲気を体験するにはうってつけの町である。
サン・マルコ広場はさまざまな国からの観光客で混み合っていた。同時多発テロ以降観光客の数が激減したということであるが、それにもかかわらず多くの観光客で賑わっていた。流石に世界一流の観光地である。
ここで目についたのが広場のそこかしこに高さ50cm位のところに畳一枚程の大きさの板が通路状に張りめぐらされていて、広場には水溜まりが出来ていることであった。満潮時には常時このような状態になり、大潮の時には40〜50cmにも水嵩が上がり広場全体が水浸しになるのである。二日前には最大2mも上がったという。
近代化の過程でベネチア近郊の工業地帯で地下水を汲み上げ過ぎたため地盤沈下が起こったことと近年の地球温暖化の影響で海水の水面が高くなってきているせいだと考えられている。近い将来ベネチアの市街地は水没してなくなってしまう運命にあるようである。
サン・マルコ寺院の内部まで床上浸水に晒されていて、足場板が設けられていたのは痛々しい限りであった。広場に溜まった水が侵入してくるのではなくて、寺院内部の床下から敷石の隙間を縫って浸水してくるということだから地盤沈下の激しさが窺われる。
このあとゴンドラに乗って市内を運河側から観察した。これはいわば町や建物の裏側を観察することであり、台所とおぼしき窓や物置部屋らしい壁面等が続いている。そして一階部分の部屋は使われていないものが多い。壁面の塗装ははげ落ち補修もされないまま放置されている建物が多い。窓に板を打ちつけて建物の過半が空き家になっていると想定されるアパート等も散見された。浸水が進んで住民が逃げ出している様子が窺われる。
ガイドに聞いた話であるがベネチアの町の住人の三大高所得階級は「あさり貝取り」「ゴンドラの船頭」「ガラス職人」であるというから現在のベニスの町の特徴をよく語っていて面白いとおもった。
昼食は各自の負担で好きな場所で食べることになっており、同行の橋田さんと二人で観光客が沢山入らないようなレストランを探して入ってみようということになり、やっと探しあてたレストランで取り敢えず、ワインを注文し、さて何を食べるかということでメニューを見たが、イタリア語で表記されていて英語の表記がされていないのでさっぱり判らない。変なものがでてきても困るので辛うじて「スパゲッティー」らしいと判る個所を指さして注文するとあさり貝のスパゲッティーがでてきた。このとき程海外旅行をして自力でレストランへ入り現地料理を堪能するには、せめて現地語でメニューが読めるだけの予習が必要であることを痛感したことはない。何時も添乗員付きで食事付きの旅行しかしていないのでこの思いは切実なものであった。
昼食後再び長駆バスでラベンナの町へ向かった。
ラベンナの町は6世紀頃形成されたこじんまりとした町である。ここではビザンチン様式のサン・ビターレ寺院を見学した。集中式と言われる建築様式に特徴があり、ステンドグラスが窓に使われるようになるまで多用されたという「太陽光を透過するアラバスター」の板が窓にはめ込まれていた。そこから射し込んでくる微かな淡い明かりと暗い教会内部を想像したとき中世の信仰生活の様子が偲ばれて感慨一入であった。
この町で神曲を書いたダンテの墓廟が残されている一角があった。町自体静かな佇まいで旧いものが大切に残されて現代人の生活とよく調和している町であると思った。
この後夕なずむ道をバスで再びフレンツェへ向かった。暗い夜道をアペニノ・トスコ・エミリアノ山脈を越えて夜遅くフィレンツエのホテルへ到着した。
平成13年11月17日(日)
宿泊したホテルは市の郊外だったのでフレンツェ市内中心街まで暫くバスで移動したが、街道の両脇に生い茂っている笠松の並木が印象に残っている。
「総ての道はローマに通ず」という諺があるが今通っているこの道路もローマ帝国時代に作られたものであろう。総て石で舗装されている。ローマ人の統治の基本的な考え方を偲ぶ一つの文化遺産である。今でこそ日本の道路も田舎道までアスファルト舗装されているが戦後まもない頃は舗装のされていない道が過半であった。占領軍の某将校が「日本には道路予定地はあっても道路はない」と言ったという言葉の意味が思い出される。
市内には市の条例でバスが乗り入れられないように規制されているので、指定の駐車場で下車してウフィツィー美術館へ向かった。通りに立ち並ぶメディチ家の居宅であったという豪壮な建物等に目を奪われながら歩いていくと通りの切れたところで、「オッ」「ワァッー」という感嘆の声が一様に上がった。大聖堂がいきなり視界に飛び込んできたのである。それは劇的な瞬間であった。
フィレンツェ大聖堂はここでもドーモと通称されているが正規の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母寺)である。1296年アルノルフォ・ディ・カンピオが造営に着手し、ジョットー・A、ピサーノ・F、タレンティ・ブルネレスキらが次々と造営に関与して、1436年に完成した。高さ107mの丸屋根はブルネレスキが施工し、「トスカナ全土を覆う」といわれた程の巨大さを誇った豪華な寺院建築である。堂内にはミケランジェロのピエタやウッチェロの絵等がある。
今回の旅行の目玉の一つであるウフィッツィ美術館へ行った。
ウフィッツィ美術館の起源は1560年に遡り、メディチ家のコジモ一世(1519〜74) の要請でトスカーナ大公国の行政管理・司法オフィス( ウフィッツィ) のために[ 川沿いに空中に建つかのような] 二つの翼廊をもつ宮殿をヴァザーリが設計したことに始まる。その5 年後には同じくヴァザーリによって僅か数カ月で、ウフィッツィとメディチ家の住居ピッティ宮殿が繋がれ、ヴェッキオ橋の上を通ってサンタ・フェリチタ教会からボボリ庭園まで抜ける廊下が建設された。町の急所と最古の橋と権力の中枢を連結して階上を走るこのヴァザーリの廊下は世界で唯一の都市通路である。 そこにはルネッサンス期のフレンツェを金融業で蓄えた豊富な資金を背景に独裁権力で牛耳ったメディチ家の面目躍如たるものを偲ぶことができる。
今日のウフィッツィは比類ない芸術遺産を誇っており、中世から現代に至る絵画や古典彫刻、細密画、タベストリー等所蔵作品は何千点を数える。ウフィッツィが優れた美術館であるのは、その見事な建築や数々の傑作によるばかりでなく、四世紀に及ぶ美術品収集の歴史が町の文化変遷と一体となって展開してきたからにほかならない。 それはなによりもメディチ家を筆頭とする町の統治者達が美術品収集に熱意を注いできた結果である。
ルネッサンス期の作品を重点的に鑑賞して回ったが印象強く記憶に残るのはボッチェリーの「ヴィーナス誕生」、春」「東方三博士の礼拝」、レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」「キリスト洗礼」、ミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」、ラファエロの「自画像」「ヒワの聖母」、「教皇レオ10世と枢機卿ジュリオ・デ・メディチと枢機卿ルイジ・デ・ロッシ」、ティツィアーノの「フローラ」「ウルビーノのヴィーナス」等であった。
シニョリーア広場で見ることのできるミケランジェロの出世作「ダビデ像」の彫刻や切り取った人間の首を手にかざす「ペルセウスの像」等も印象に残った。
アルノ川近くのサンタ・クルーチェ教会にはガリレオ、マキャベリー、ダンテ等が埋葬されているという。ダンテの墓廟はラベンナでも見たから分骨されたのであろうか。
午後から再びバスに乗って長駆レオナルド・ダ・ビンチの生家があるビンチ村へ向かった。山奥の小高い丘の上にあるレオナルド・ダ・ビンチの生家はオリーブ畑に囲まれた見晴らしの良い所にあり、日干し煉瓦を積み重ねて作られた住居跡は博物館になっていてレオナルド・ダ・ビンチがスケッチした飛行機や兵器や機械類の図面を基に作られた模型が展示されていて天才の先見性の一端を示す文物であった。実に閑静な場所である。
再びフレンツェへ戻りホテル近くのレストランで赤ワインを貰いリゾットを食べた。 リゾットといえばイタリア風のお粥であると理解し、歯ざわりの少ない食べ物は敬遠してきた口には初めての食べ物であったが、お粥とはまるで違っていてチャーハンか炊き込みご飯のような感覚のものでご飯に多少芯らしきものを感じたが、食べてみるとなかなか乙な味がした。ワインが安くて美味しいのが今回の旅行で最も嬉しいことの一つであった。
平成13年11月18日(月)
フレンツェのホテルを早朝出発して世界遺産に指定されている中世の城郭都市サン・ジャミアーノを訪問した。
カシア街道やフラジェリア街道の交叉する東西交通の要衝として1150年頃から自治都市として発展した町である。サン・ジョバンニ門を通り抜けてチステルナ広場まで行った。この町はドウモ(教会)を中心に形成されたこじんまりとした町でチステルナ広場には当時使っていた井戸が残されていた。
この広場にたって町の佇まいを観察すると長方形の高い塔が建物に付属して建っているのがいやでも目につく。有名なのはグロッサの塔である。54mの高さだという。 驚いたのはその数の多いことである。全盛期には町全体で72もあったという。これらの塔は権力や財力の象徴としての意味しかないというから古今東西を問わず人間の権力や財力への執念のすざまじさを垣間見る思いであった。
フレンチェ等とも戦ったことがあり、町の一番高い場所には城砦が築かれ遠くを見通せるようになっていたし、現在でも町全体が城壁で囲われていて、中世の生活がそのまま息づいているような町の佇まいである。
次いでピェンツァの町を訪問した。ここも世界遺産に指定されている町であり、近世忘れられていたのを或る建築家に紹介され、ルネッサンス様式の建物が沢山保存されていることで有名になった町である。法王ピウス二世が15世紀の建築家ロッセリーノを用いてルネッサンスのモデル都市を計画させたことがその起源となっている。この歴史的保存地区の周辺を取り囲んで閑静な高級住宅街が形成されている。ピェンツァの町では今回の旅行で初めて雨に遭遇した。
この日の旅程はシエナの町の訪問で終わるのだが、移動中にバスから眺めたトスカーナ地方の風物は印象に残る長閑で異国を感じる光景であった。
それは、あまり高くもない丘陵状の畑がうねりながら或いは重なり合いながら地平線の果てまで広がっているのである。糸杉が所々に立っていてこの光景にアクセントをつけている。畑は取り入れを終わって耕されたばかりのものもあれば、牧草が短く生えて緑色をしているものもある。放牧された牛の群れがのんびりと草を食んでいたりするといやがうえにも旅情をそそる。折から冬の短い太陽の日差しが我々の乗ったバスの影法師を大きく畑に写していくのである。
日本で似たような光景を敢えて探せば北海道は美瑛町の丘陵畠であろうか。ここトスカーナのはその数倍の広大さなのである。
黄昏近い頃やはり世界遺産に指定されているシエナの町へ到着した。ドウモを中心に広がった旧市街は小高い丘の上に纏まっており、バスから下車した位置から遠望するとここも都市国家であったことが一目で判る。
サンタ・バルバラの要塞、カンポ広場、大聖堂等を見学した。
大聖堂は1200年代に建築家ジョバンニ・ピッサーニによって、建設されマリアのために捧げられたゴシック様式とロマネスク様式の見られる教会である。一見して特徴的なのは建物に横縞模様が取り入れられており、アラビアの影響が入っていることである。このような様式をピサ様式というとのことである。
シエナ人はプライドが高く、フレンチェへの対抗意識が強くフレンチェの大聖堂よりも大きなものに建て替えようと計画したが、黒死病の蔓延で計画は頓挫し、外壁と建設予定地だけは当時のまま残っていて現在は駐車場に転用されている。
シエナは創設時から銀行業で成り立っている町で現在も市民の半数以上が銀行に係わる仕事に従事しているという。またシエナに本店を置く銀行は海外のどの支店であっても必ず一人はシエナ人を派遣している。
平成13年11月19日(月)
この日はヴァチカン市国の美術館で名画を堪能した。(ヴァチカン市国編で別掲)
平成13年11月20日(火)
朝7時頃ローマのホテルを出発してポンペイ遺跡とナポリの日帰り観光に出かけた。約3時間の走行の後ベスビオス火山が見え出した。ポンベイ遺跡に近づいたようである。
ポンペイは古くからオスキ人、サムニウム人という何れも古代イタリア人の一派が定住し、農業、商業、貿易で繁栄していた。ローマ時代には一段と発展し一世紀にはその絶頂に達したが、79年8月24、25日のべスビオス火山の大噴火により全市が噴砂と火山灰で埋没し二万人以上の住民のうち約一割の死者を出した。1738年以来組織的に発掘され、1860年以降は本格的な発掘調査が行われ現在も継続している。
都市は代表的なローマ帝国の都市の姿をどどめており、西南部の二つの広場を巡り公共浴場、劇場、体育場、神殿、市場、バジリカ等が配されている。また、建築、壁画、彫刻、調度品などもよく保存されていて当時の文化水準や風俗、生活の実体を知る貴重な資料を提供している。
ここで印象に残ったのは生き埋めになった人間が火山灰の中で腐敗し骨だけ残った火山灰塊を発掘し、残されていた人型へコンクリートを注入して被害者のコンクリート像を作り展示してあった姿である。説明がなければ人間がそのまま埋もれて炭化したミイラが残ったと思ったかもしれない。窒息死したであろうと思われる苦しそうな表情もよく再現されていた。
また路面に男根を型取って表示されている売娼宿の道標、売娼宿の狭い部屋や石製のベッド、更には部屋の壁に描かれたメニューとしての体位の絵なども残されていて、人類最古の職業と言われるだけのことはあるなとニヤニヤしながら説明を聞いていた。
このあとナポリの町をバスで観光しナポリ港が見下ろせる丘を回った後、ローマへ向かって夕暮れせまる帰り路を急いだ。ナポリは国際的な港町で治安が極端に良くないということで車から降りることは許されず、総て車窓からの観光となった。
海を前面に配し、ベスビオス火山を背景にして、山の斜面へ広がるナポリの町はとても美しい景観を作り出していた。しかし近くを通りすがりに眺めた限りでは建物の壁面の剥落は激しくかなり荒廃が進んでいるなとの印象である。聞くところによるとナポリでは造船に関係して生活している人が多く、造船業の斜陽化と折からの不況の影響でナポリ市内の失業率は50%を越えているということである。そのせいで町も荒れるのであろうか。
平成13年11月21日(水)
朝ホテルを7時20分に出発してレオナルド・ダ・ビンチ空港からオランダのスキボール空港を経由して帰国の途についた。
【旅行時期】2001/11/14~2001/11/21
【エリア】
イタリア
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮